Tag: ludic pedagogy

  • ゲーミフィケーションではなく、「遊び心」を導入しましょう

    ゲーミフィケーションではなく、「遊び心」を導入しましょう

    by

    in

    English version follows Japanese! はじめに 教育の現場では、いまだに「ゲーミフィケーション」という言葉がバズワードのように使われています。これは、おそらく授業内容や指導法、教育そのものを根本から見直すよりも、ゲーミフィケーションを導入する方が手軽だからでしょう。 実際、私自身も2012年にはその可能性に惹かれ、授業でゲーミフィケーションを試してみました(York, 2012)。学生にいくつかのタスクから選ばせ、自分に合った学習方法で進めてもらうという方法です。しかし結果として、学生のモチベーションが高まるというより、最も簡単なタスクばかりを選んで取り組むようになりました。つまり、挑戦的な課題には手を出さなかったのです。 このような行動は、外発的な報酬の弊害として知られています(橋口, 1982)。報酬を失いたくないという気持ちが強まると、人は失敗のリスクを避けようとし、安全で確実に報酬が得られるシンプルなタスクを選ぶ傾向があります。 このように、ゲーミフィケーションの導入は一見効果的に思えるものの、実際には学習者の行動に予期せぬ影響を与えることがあります。この記事ではゲーミフィケーションではなく「遊び心」のある教育が必要だと伝えたいです。そして、いくつかの実際例も紹介します。 Duolingo 教育現場を訪れる前に、ゲーミフィケーションの代表的なアプリとしてまず挙げられるのがDuolingoでしょう。「ゲーム的要素を取り入れたサービス」として広く紹介されています。しかし、本当にこれらは「ゲーム」と呼べるのでしょうか?また、こうしたサービスを教育に導入することが、本当に学びの質を向上させると言えるのでしょうか? 近年、Duolingoは大きな批判を浴びています。その背景には、ゲーミフィケーションの仕組みそのものがあると私は考えています。ゲーミフィケーションのraison d’être(存在理由)は、ユーザーの行動を操作・制御することであり、主に以下のような目的で用いられているでしょう。 ここで注目すべきなのは、「ユーザーが何かを学ぶ」という視点がこの仕組みに含まれていないという点です。 実際、Redditには「連続ログイン記録(streak)」を維持するためだけにアプリを開いているという投稿が多数あります (1、2、3)。つまり、学習そのものよりも streak を維持することが目的化しているのです。もちろん、「streak のためにアプリを開くということは、多少なりとも言語学習につながっているのでは?」という見方もあるでしょう。しかし、アプリを開く動機が学習ではなく streak の維持であるという事実は、深刻な問題をはらんでいます。 さらに深刻なのは、streak を失った瞬間にモチベーションが一気に低下し、アプリの使用自体をやめてしまうというケースが多いことです(Reddit 参照)。それでは、そもそも彼らの「学習への動機」はどこにあったのでしょうか? ここで重要なのは、Nicholson(2012)、Pink(2009)、Deci(1971)といった研究者たちが述べているように、要点をまとめれば: 報酬を取り除けば、行動も消える ということです。 このような傾向が、ユーザーが自らアプリをダウンロードし、ある程度自律的に利用しているところで起きているのであれば、果たして、学校などの教育現場で外発的な報酬で学習行動をコントロールしようとしたとき、どのような結果を招くのでしょうか? 本稿では、教育現場におけるゲーミフィケーションの問題点を指摘し、「遊び心(ludic)」を基盤とした、より人間的な教育の在り方を提案します。 ゲーミフィケーションの問題点 教育構造を変えない表層的アプローチ ゲーミフィケーションは、教育の仕組みそのもの(たとえば成績のつけ方、出席のルール、課題中心の学び方)を変えるのではなく、その外側に「ポイント」「バッジ」「ランキング」などの飾りをつけるだけの方法です。これにより、学生は行動を操作される対象となり、教師は単なる管理者としての役割にとどまります。つまり、教育における人間関係や動機づけの根本にアプローチするものではありません。 ゲーム研究者のイアン・ボゴスト(2014)は、ゲーミフィケーションを「ダッシュボード化(dashboardification)」と呼び、それはゲームとはまったく別物であり、見た目だけゲーム風にして、数値化や管理の道具として使っているにすぎないと指摘しています。そこには、本来のゲームに見られる「選択」「葛藤」「意味のある活動」は存在しません。 ちなみに、私はダッシュボードの仕組み自体が悪いものだとか、教育現場に導入すべきでないとは思っていません。学生が自分の進歩を確認できるフィードバックや成果の測定は必要です。 ただし、それはゲーム本来の要素とは無関係であり、「ゲームを参考にした学び方」として強調するものではないでしょう。 また、ダッシュボードを導入したからといって、それだけで教育的に価値のあるものを提供しているとは言えません。たとえ評価基準やフィードバックが整っていても、授業やカリキュラムの内容、そして学習方法(pedagogical approach)が同じくらい重要だからです。 競争を助長し、他者と比較させる設計 ゲーミフィケーションの多くは、競争を前提としています。ポイントやランキングがその象徴です。しかし、このような外的動機づけ(extrinsic motivation)は、一部の学生には効果があっても、多くの学生にとっては「疲れる」「追いつけない」「やる気が削がれる」体験になります。特に教育の場では、比較や競争ではなく、内発的な学びや安心できる空間の提供こそが求められます。 生徒はすぐに見抜く:「これ、ゲームじゃないでしょ」 教師が「楽しいゲームを用意しました!」と意気込んでも、それが単なる課題+ポイント制の「ごっこ遊び」であれば、生徒はすぐにその仕掛けを見抜きます。むしろ信頼関係を損ない、学びそのものへのモチベーションを下げてしまうリスクもあります。 「ゲーミフィケーションの6要素」はただの「良い教育」では? 日本ゲーミフィケーション協会(JGamifa)は、以下のような「ゲーミフィケーションデザイン6要素」を提示しています(出典): 一見すると魅力的な要素に思えるかもしれませんが、これらはすべてゲームに特有の設計ではありません。むしろ、すべての良質な授業や教育が備えるべき基本的な教育原則です。つまり、教師が日々自然に心がけていることを「ゲーミフィケーション」と再定義しているだけであり、Bogostの批判のように、これらはゲームの要素とは言えません。 本来の意味におけるゲーミフィケーションは、もっと限定的な概念です。これらの教育的な良い実践を「ゲーム的だから良い」と誤認することは、ゲームという文化的形式の誤解につながり、同時に教育実践の本質的価値も歪めかねません。 ケーススタディ:プログラミング不登校生徒へのアプローチ 以下のような「ゲーミフィケーション」のアイデアが紹介されていました。 これは、単なる「成績評価の変形」であり、ゲームでもなければ、学びの意味を変えるような仕組みでもありません。ポイントを付与したからといって、不登校の背景にある社会的・心理的・制度的な課題が解決されることはありません。本来であれば、その生徒自身と保護者に向き合い、なぜ登校できないのか、何が障壁となっているのかを丁寧に聞くべきです。 代替案:ルディック(ludic)な教育 私は、「遊び心」を中核に据えたルディックな教育を提案します。これは、以下の2つの要素を活かすアプローチです。 このアプローチでは、教師が持っている素材や状況の制約の中で、「どこに遊びの余地をつくれるか?」を問い直します。つまり、授業に遊び場(playground)をつくり、学生が自由に探求できるようにするのです。ポイントではなく、「意味のある選択肢」や「想像力を引き出す問い」によって学生の内発的な動機を刺激します。 Ludic Objectsについて…